【驚愕!】ブルマは本来ノーパンで履くものだった?!パンティーを履く風習よりブルマが広まった方が先という事実ネットでこういう書き込みを目にして『17.名無しさん:2019年05月01日 20:58 ID:a5pOmyYF0▼このコメントに返信>>6本格的な洋装を簡易に可能としたブラジャーの発明が1915年とされていて、翌年日本に紹介されたのがなんと大正元年。ブラと、なぜかついでに体操服としてのブルマが女学校を通じて若年女性に普及したのが大正年間だったんだけど、もちろん女学校の存在する都会だけの話だったわな。18.名無しさん:2019年05月01日 20:59 ID:F5GRtp2Y0▼このコメントに返信白木屋の火事が昭和7年なので、大正時代の女性はまだパンティーを履いてなかった』(大正とかいう時代wwwwwww:おーぷん2ちゃんねる)調べた結果『女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)では、留学先のアメリカから井口阿くりが持ち帰ったブルマーが体操着として1903年に最初に紹介され、大正末期から昭和初期にかけて女学校で採用されるようになった[2][3]。 』(Wikiより)また、このブログでは『明治期後半の女子体操服は1900(M33)年頃から多く採用されたといわれる海老茶袴の「女袴」で、長い着物の上に着た女袴は男性の袴と違ってスカート状でした。通学用との兼用で、運動時に着物は襷(たすき)がけで袖を押さえ、袴は下着を着用するか、裾を縛ることなども行われていたそうです。同じ頃、ブルマーとセーラー服の体操服が紹介され始め、明治期の1905(M38)年に、アメリカに留学した井口あくり(阿くり)さんがセーラー服とブルマーを提案され、教鞭をとっていた東京女子高等師範学校の体操服(制服)としたそうです(今見ると袴っぽい)。井口さんのブルマーとセーラー服も、当時は広く普及することはなかったそうです。ブルマーはわりとよく知られているのですが、セーラー服のほうは継続しなかったことと体操服とされることから最初の女子制服のセーラー服ということにはなってないみたいです。』『その後大正になって洋装の普及と女子の運動ブーム?にあわせて、1921(T10)年前後からブルマーやセーラー服は広まっていきます。その頃のブルマーの丈が短くなっているのは、欧米の第一次世界大戦後の服装の大きな変化(体が楽な緩めの服で短いスカート、みたいな)を受けているのだと思います。といったながれなのですが。日本で最初にセーラー服とブルマーの東京女子高等師範学校の体操服を製造したのが大河内婦人洋服店です。そして当時、そこで徒弟をしていたのが最初の画像の1925(T14)年の「女子の體操服」の西島芳太郎さんです。』(大正14年、セーラー服とブルマーhttp://blog.livedoor.jp/mukashi_no/archives/44467686.html)であるとそれに対して、女性がパンティーを履き始めるきっかけとなった『白木屋デパート火事騒動』があったのは1932年(昭和7年)12月16日。なんと、約12年もの差で日本ではブルマの方が先に広まっていたわけです!もしこのまま、ノーパンでブルマを履く習慣のままブルマが進化していったら、ハミパンなど気にすることもなく女子達は伸び伸びと運動することが出来ていたはず。。。しかも最初に日本に紹介された時点ではブルマの上はセーラー服をもって体操着にするという。洋式体操着の始祖がまさかのセラブルだったとは。当時の男子学生が目のやり場に多少困りながら、「うん、可愛いよ」と顔を赤らめる姿が容易に想像出来るというもの(妄想炸裂)(つづく)
【驚愕!】ブルマは本来ノーパンで履くものだった?!パンティーを履く風習よりブルマが広まった方が先という事実
ネットでこういう書き込みを目にして
『17.名無しさん:2019年05月01日 20:58 ID:a5pOmyYF0▼このコメントに返信
>>6
本格的な洋装を簡易に可能としたブラジャーの発明が1915年とされていて、翌年日本に紹介されたのがなんと大正元年。
ブラと、なぜかついでに体操服としてのブルマが女学校を通じて若年女性に普及したのが大正年間だったんだけど、もちろん女学校の存在する都会だけの話だったわな。
18.名無しさん:2019年05月01日 20:59 ID:F5GRtp2Y0▼このコメントに返信
白木屋の火事が昭和7年なので、大正時代の女性はまだパンティーを履いてなかった』(大正とかいう時代wwwwwww:おーぷん2ちゃんねる)
調べた結果
『女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)では、留学先のアメリカから井口阿くりが持ち帰ったブルマーが体操着として1903年に最初に紹介され、大正末期から昭和初期にかけて女学校で採用されるようになった[2][3]。 』(Wikiより)
また、このブログでは
『明治期後半の女子体操服は1900(M33)年頃から多く採用されたといわれる海老茶袴の「女袴」で、長い着物の上に着た女袴は男性の袴と違ってスカート状でした。通学用との兼用で、運動時に着物は襷(たすき)がけで袖を押さえ、袴は下着を着用するか、裾を縛ることなども行われていたそうです。同じ頃、ブルマーとセーラー服の体操服が紹介され始め、明治期の1905(M38)年に、アメリカに留学した井口あくり(阿くり)さんがセーラー服とブルマーを提案され、教鞭をとっていた東京女子高等師範学校の体操服(制服)としたそうです(今見ると袴っぽい)。
井口さんのブルマーとセーラー服も、当時は広く普及することはなかったそうです。ブルマーはわりとよく知られているのですが、セーラー服のほうは継続しなかったことと体操服とされることから最初の女子制服のセーラー服ということにはなってないみたいです。』
『その後大正になって洋装の普及と女子の運動ブーム?にあわせて、1921(T10)年前後からブルマーやセーラー服は広まっていきます。その頃のブルマーの丈が短くなっているのは、欧米の第一次世界大戦後の服装の大きな変化(体が楽な緩めの服で短いスカート、みたいな)を受けているのだと思います。
といったながれなのですが。日本で最初にセーラー服とブルマーの東京女子高等師範学校の体操服を製造したのが大河内婦人洋服店です。そして当時、そこで徒弟をしていたのが最初の画像の1925(T14)年の「女子の體操服」の西島芳太郎さんです。』(大正14年、セーラー服とブルマーhttp://blog.livedoor.jp/mukashi_no/archives/44467686.html)
であると
それに対して、女性がパンティーを履き始めるきっかけとなった『白木屋デパート火事騒動』があったのは1932年(昭和7年)12月16日。
なんと、約12年もの差で日本ではブルマの方が先に広まっていたわけです!
もしこのまま、ノーパンでブルマを履く習慣のままブルマが進化していったら、ハミパンなど気にすることもなく女子達は伸び伸びと運動することが出来ていたはず。。。
しかも最初に日本に紹介された時点ではブルマの上はセーラー服をもって体操着にするという。洋式体操着の始祖がまさかのセラブルだったとは。
当時の男子学生が目のやり場に多少困りながら、「うん、可愛いよ」と顔を赤らめる姿が容易に想像出来るというもの(妄想炸裂)
(つづく)