>>20熊襲の女酋説本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である[33]。本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している[34]。那珂通世も、大隅国姫木を邪馬台国とし、卑弥呼は九州の女酋であり、朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。星野悟は、新井白石が邪馬台国を筑後国山門郡に比定した[35]のを承けて、邪馬台連合国女王卑弥呼とされているのは、山門(ヤマト)にいた土蜘蛛(土着の豪族)の女王田油津媛(日本書紀によると神功皇后に成敗された)の先々代にあたるとした。 宣長は日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は到底受け入れられるものではなかった。本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており、これらの考えは古田武彦らの吉田史学へと引き継がれている。また古田史学の会員の日野智貴はクマソタケルを卑弥呼と壱与の間の「男王」であると主張している。甕依姫説九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。ただし筑後風土記逸文の原文からは、甕依姫がいつ頃の人なのか不明でありその生存年代をうかがう術はまったくない。
>>20
熊襲の女酋説
本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である[33]。本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している[34]。那珂通世も、大隅国姫木を邪馬台国とし、卑弥呼は九州の女酋であり、朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。星野悟は、新井白石が邪馬台国を筑後国山門郡に比定した[35]のを承けて、邪馬台連合国女王卑弥呼とされているのは、山門(ヤマト)にいた土蜘蛛(土着の豪族)の女王田油津媛(日本書紀によると神功皇后に成敗された)の先々代にあたるとした。 宣長は日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は到底受け入れられるものではなかった。本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており、これらの考えは古田武彦らの吉田史学へと引き継がれている。また古田史学の会員の日野智貴はクマソタケルを卑弥呼と壱与の間の「男王」であると主張している。
甕依姫説
九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。ただし筑後風土記逸文の原文からは、甕依姫がいつ頃の人なのか不明でありその生存年代をうかがう術はまったくない。