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>>54 金学順 はてなブログ版 http://scopedog.hatenablog.com/entry/20150122/1421948315 提訴前の聞き取り(1991年11月25日) 名乗り出から約4ヵ月後、金学順氏は他の2人の慰安婦(匿名)およびその他の元軍人・軍属らと共に日本政府を提訴しました。1991年12月6日のことで、この裁判は「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」として知られます。 提訴にあたって弁護団は金学順氏に対する聞き取り調査を行なっています。それが1991年11月25日のことで、これに植村氏が同行して聞き取り内容が記事となって一ヵ月後の1991年12月25日に掲載されました。 1991年12月25日朝刊 韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の元朝鮮人従軍慰安婦、元軍人・軍属やその遺族35人が今月6日、日本政府を相手に、戦後補償を求める裁判を東京地裁に起した。慰安婦だった原告は3人。うち2人は匿名だが、金学順(キム・ハクスン)さん(67)=ソウル在住=だけは実名を出し、来日した。元慰安婦が裁判を起したのは初めてのことだ。裁判の準備のため、弁護団と「日本の戦後責任をハッキリさせる会」(ハッキリ会)は4度にわたり韓国を訪問した。弁護士らの元慰安婦からの聞き取り調査に同行し、金さんから詳しい話を聞いた。恨の半生を語るその証言テープを再現する。(社会部・植村隆) ○17歳の春 「私は満州(現中国東北部)の吉林省の田舎で生まれました。父が、独立軍の仕事を助ける民間人だったので満州にいたのです。私が生後100日位の時、父が死に、その後、母と私は平壌へ行きました。貧しくて学校は、普通学校(小学校)4年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」 「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年)でした」 「平壌駅から軍人達と一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。鍵をかけられてしまいました。しまったと思いました」 「翌朝、馬の声に気づきました。隣には3人の朝鮮人の女性がいました。その人たちから『おまえたちは、本当にばかなことをした。こんなところに来て』と言われました。逃げなければならないと思ったのですが、周りは軍人でいっぱいでした。友人と別にされ、将校に『言う通りにしろ』と言われました」 「将校は私を暗い部屋に連れて行って、『服を脱げ』と言いました。恐ろしくて、従うしかありませんでした。そのときのことはしゃべることさえ出来ません。夜明け前、目が覚めると将校が横で寝ていました。殺したかった。でも、出来ませんでした。私が連れて行かれた所は、『北支(中国北部)カッカ県テッペキチン』というところだということが後で分かりました」 ○赤塀の家 「この慰安所は赤い塀の家でした。近くには民間人はいません。軍と私たちだけでした。5人の女性がおりました。22歳で最年長のシズエは将校だけを相手にしていました。サダコ、ミヤコ、それに友人のエミコ。私はアイコと呼ばれていました。近くの部隊は300人くらいでした。その部隊について、移動するのです」
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